2021年05月09日

そのまま救う阿弥陀さま

 わたしたちは普段から「正しく」あろうとして生きています。わざわざ間違ったことをしようとして生きている人は恐らくそんなにいません。でも、今日は一日ずっと正しいことばかりしていたと振り返ることも、一つも間違わなかったと思うこともありません。
 それでもわたしたちは平然と生きています。正しくあろうとして間違って、それをあまり気にせずに生きています。それどころではなく、家族や友だちの間違いを指摘したり、テレビなどで何かを派手に間違った人のことが報道されると、国民一丸となってその人を叩いて叩いて「のしいか」のようにしたりしてしまいます。
 かと思うと、ふとした時に突然、過去の自分の間違いを急に思い出して、自分は一体なんてことをしたんだろうと反省し始めたり、逆に、その間違いのきっかけを自分以外の誰かに押しつけようとしたりもします。
 正しく生きようとして、正しく生きられず、それを苦にたりしなかったり、突然に反省したり、自分が悪いんじゃないと思おうとしたり……。
 つまりわたしたちは、自分にも他人にも正しくあることを求め、それでもずっと間違い続けながら生きているのだと思います。
 では、そうやって間違いながらしか生きられないわたしたちが、何か確かな「正しさ」を見つけ出して、その「正しさ」をつかみ、それに基づいて「正しく」生きようとしたら(そしてそれを他人にも薦め、求め、結果的に押しつけたら)、どうでしょう。
 きっと、間違いながらしか生きられないわたしたちが見つけた正しさは、残念ながら、それほど正しくないのではないでしょうか。
 正しく生きようとして間違い続けるわたしたちの前に、わたしたちの考える善悪を超えて開かれているのが仏教です。
 阿弥陀仏の救いは「そのまま」の救いです。これは、「間違った!」と思っても「そのまま」突き進めということではありません。正しくあろうとして、間違って、より正しくあろうとして反省して、……でもまた間違ってしまう、そういうわたしたちを「そのまま」救うのです。
 わたしたちを導いて正しくしてから救う阿弥陀さまではありません。正しくあろうとして間違い続けるわたしたちだから、そのまま救う阿弥陀さまです。
posted by 妙法寺 at 00:46| Comment(0) | TrackBack(0) | ご法話

2020年07月23日

とあるカメラマンのブログのシェアです。

「撮りがいのあるギャルに感銘をうけた日」
https://note.com/masnote/n/n18b3da72beff

ニコニコしてる写真を見てるのにすごく泣けました。
仕合わせな感じの泣きです。
カメラマンのブログです。すごく感銘を受けたのでシェアします。
非常に浄土真宗(本願寺派)的な記事でした。
身業説法、まんま。
なんまんだぶ。なんまんだぶ。なんまんだぶ。

(かわいい)
posted by 妙法寺 at 01:31| Comment(0) | TrackBack(0) | ご法話

2020年07月17日

テレホン法話。

浄土真宗本願寺派・北海道教区十勝組、ならびに、浄土真宗本願寺派本願寺・帯広別院で、共同でずうーっとやっているテレホン法話があります。その 2020年7月16日〜31日 を担当しました。

電話 0155-42-4446
よろしければお聞きください。
以下、その原稿です。

 浄土真宗本願寺派、北海道教区十勝組・本願寺帯広別院、テレホン法話に、ようこそ。

 さて。親鸞さまの言葉を紹介してくださっている『歎異抄』という書物の、第八条には、親鸞さまが、「念仏は、称える人にとっては、行でも善でもない」と仰った、とあります。

 行ではないというのは、行は「おこない」という字を書きますが、「おこないではない」ということではなく、もちろん「おこない」ではあるけれど、それによって何か結果が生み出されるタイプの、仏道修「行」のようなものでは、ない、ということです。

 そして、「行でも善でもない」というときの「善」というのは、善し悪しの「よし、」善を積む、善行を積んでいくという意味合いで語られる、そういうものでは、ないということです。

 ですから、お念仏を、わたしが称える場合は、わたしにとって、念仏は行でも善でもない、つまり「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と称えるのは、何か結果が生み出されるタイプの、仏道修行、「行」ではないし、積み上げられていくタイプの善、でもない、ということです。

 聞くだけだと伝わりにくいでしょうか。

 つまり、親鸞さまが仰りたいのは、わたしが「なんまんだぶ、なんまんだぶ」ってとなえるのは、わたしが称えている、そのまんまが、まさに、阿弥陀さまのはたらきの中にある出来事であって、わたしの行いや、善をめざすような思いを、完全に超越しているということなんです。

 つまり、わたしがなんまんだぶをとなえているということは、わたしは阿弥陀さまに救われるということです。

 大事なことなので二度言います。つまり、わたしがなんまんだぶをとなえているということは、わたしは阿弥陀さまに救われるということです。

 あなたもわたしも、わたしやあなたが頑張るから阿弥陀さまに救われるのではなく、わたしの行いや、わたしが善だと考える物事に一切、何にも関係なく、「あなたのことは、南無阿弥陀仏を届けて、阿弥陀仏が救います。」ということなんです。

 阿弥陀さまが整えて、わたしのところに今こうやって届いている「なんまんだぶ!」、南無阿弥陀仏が、救いそのものです。それを、仏道修行のように「行」じたり、「善」として積み上げたりする必要はありません。ただ、阿弥陀さまの仰せにしたがって南無阿弥陀仏と言わせてもらうだけです。

 疑っても良いんです。ただ、その疑いには何の意味も効果もありません。南無阿弥陀仏が届いているという事実の前には何事もかすんでしまいます。

 わたしがなんまんだぶをとなえているということは、わたしは阿弥陀さまに救われるということです。

 なんまんだぶ、なんまんだぶ。

 担当は、十勝組、音更の妙法寺、石田智秀でした。
posted by 妙法寺 at 02:35| Comment(0) | TrackBack(0) | ご法話